格闘家の怪我とリング復帰



試合前、、、
「怪我が治ること」と「不安なく闘える状態になること」
メディカルトレーニングの意義
脳との感覚のずれ
試合中の怪我にも負けない選手
格闘家のすぐそばで





試合前、、、
あなたは数週間後に大きな試合を控えているとしましょう。いままでずっと強くなるためにハードな練習を乗り越え、いつもいつも”勝つこと”を考え、時には試合開始直後にあっけなく負けてしまう、そんな悪夢をみながらもなんとかアマ大会や地方大会で結果を出し、いよいよ格闘技を始めた頃の夢であった舞台への参戦が決定したのです!!この大舞台で活躍すればあなたの格闘家としての認知度はぐっと上がり、雑誌やテレビにも登場するチャンスがやってきます。「こんどの試合が俺の格闘家としての勝負どころだな。」言葉に出さなくてもあなたの試合にかける意気込みは自然と周囲に影響していきます。今回は一緒に練習して来た仲間や指導者の応援も今まで以上に大きく、夜遅くまでジムに残って練習の相手をしてくれます。「試合で必ず結果を出してみんなにお礼を言いたい。」辛い練習も試合に勝った自分の姿をイメージすることで乗り切っていきます。
そんな矢先、アクシデントで膝を痛めてしまったとします。「試合もせまっているし、スタミナ練習もまだまだ十分とはいえないこの時期に、なんて怪我をしてしまったんだろう!!」悔しさと辛さと焦りがごちゃ混ぜになったような感覚は格闘技への取り組みが真剣であればあるほど切実であるはずです。
病院で診察を受け、レントゲンを撮り、医師には「靭帯を痛めているからしばらく運動は控えるように。」と言われました。
試合に出るため、一日も早く練習に戻りたいあなたは「どのくらいで練習に戻ったらいいでしょうか?今、どんな練習ならやってもいいでしょうか?」気になっていることをあなたはドクターに尋ねます。しかしあなたの心の中で一番聞きたいけど、一番聞きにくい質問があなたの心の中でリピートされます。
「数週間後の試合に出ても大丈夫でしょうか?」
しかし残念ながら、あなたの期待する答えを医師からもらえるとは限りません。ここで多くの人の選択は二つに分かれる傾向があるようです。
A:ベストコンディションでないので残念だが欠場する。
B:怪我を我慢して今の練習を続け出場する。
Aの場合、体にとってはいいかもしれませんが、同じような大舞台の機会がまた巡ってくるかはわかりません。プロ選手の場合、一度出場を辞退すれば、二度と同じ団体からオファーが来なくなる場合があります。またアマチュアのトーナメント(全国大会や世界大会など)でも、せっかく勝ち抜いて代表に選ばれたのに、また代表になるにはもう一度小さな大会から実績を積まなければならないのです。(もちろん、運動絶対禁止!安静にするように!といわれた場合はAしかないのですが)
一方、Bの場合、膝の不安がつきまといます。練習も満足にこなせるかわからないし、もし相手に靭帯を狙われてしまったら、格闘家として選手生命が終わってしまうかもしれない、、、。試合に出ても相手とだけではなく怪我とも戦わなければないらない運命が待っています。もしこれが引退試合なら、不可能ではないかもしれませんが。
私どもがメディカルトレーニングで格闘家にお勧めするのはAでもBでもない別のアプローチです。
C:怪我の評価をきちんと行い、やっていい運動とやってはいけない運動をはっきりさせる。この場合、膝に極端に負担がかかるメニューや全体のバランスを崩すようなメニューは選手と相談の上、極力安全なものに代えていきます。そして怪我のためのリハビリとトレーニングをきちんと行いながら戦える状態をつくっていく。メディカルトレーニングとジムでの練習をすすめながら、試合の出場、欠場は怪我の状態と選手の今後を考えてじっくり検討していくという方向性です。

「怪我が治ること」と「不安なく闘える状態になること」
格闘家が練習に、そして試合に復帰していくためにはどうしたらいいのでしょうか?ここで、私どものメディカルトレーニングに参加していただいている、ある格闘家(総合格闘技)を例をご紹介いたします。
彼は、様々な試合で経験をつみ、プロのリングにも何度も参戦しているファイターです。去年、練習でのアクシデントにより肩鎖関節が脱臼してしまい、ある病院の整形外科に入院。彼の場合、プロとしての経験もあり、今後も格闘技での活躍を強く望んでいる選手であったため本人から進んで手術療法を選択しました。手術は問題なく終わり、手術後の固定も良好で彼の執刀医からはもう大丈夫だから、と三角巾固定のOFFの許可をもらったのでした。
この時点で彼は日常生活に全く支障を感じておらず、「肩鎖関節の治療」は一つのゴールを迎えました。
ところが彼はまた練習で同じ部分を傷めてしまいました!幸いにも再脱臼は起こしていなかったのですが、手術した部分に炎症が起きており、動かした時の痛みと打撃への不安が生まれてしまったのです。彼がメディカルトレーニングに参加するようになったのはこの直後でした。
@受傷→A病院受診→B診察、検査、診断→C入院→D手術→E固定→F退院→G固定の解除→H日常生活への復帰
簡単にまとめると、彼は@からHの過程をきちんと経て執刀医の正しい判断にしたがって日常生活への復帰を果たしたのです。
ここまでは誰の眼から見ても全く問題はないと思います。というのも執刀医は科学的根拠に基づいた正しい治療をやっていますし、実際に彼は仕事、日常生活をこなせるようになったのですから。そういう意味では「怪我は治った」といっても良いでしょう。
実際に、多くの場合医師のかかわりはここまでのようです。「日常生活に復帰すること」それは治療する側からすればひとつの治療の終了を意味するもの事実です。
ところが、彼はプロのファイターです!彼の体と心、、、それは普通の人とは少し違うのです。普段から体と心を極限まで鍛え上げ、食事と栄養に神経を使い、憎くもない相手を殴り、蹴り、投げ、関節を決める、また何にも悪いことをしていないのに練習相手、試合相手から攻撃される。リング(試合場)で力の限り闘ったあとは、なぜか相手のことを古くから知っているようなそんな感覚にとらわれ、相手に尊敬の念すら抱き、お互いを祝福する、、、、、。今の平均的日本人からするとなかなか理解しがたい人種なのかもしれませんが、それが格闘家なのです。
彼の日常生活は、練習をする、ウエイトをやる、走りこみなどの体力作りをする、スパーリングをする、強くなるための食事を取る。それが”彼の”生活のなのです。ですから当然そこには日常生活に対する認識の違いが生まれてくるのです。
医師、医療者:「怪我が治ること」が目標。
格闘家:「試合で不安なく戦える状態になること」が目標
格闘家がゴールに到達するためには@からHにプラスして、「怪我が治ること」と「試合で不安なく闘える状態になること」の間にあるギャップを埋める作業が必要なことがお解りいただけると思います。

メディカルトレーニングの意義
それでは、彼が同じところを怪我してしまったのは何故でしょうか?不安なく試合に臨めるようになるには何をすればいいのでしょうか?彼がが最初に相談に来たときのメディカルチェックでその原因がはっきりしました。
肩鎖関節脱臼の手術後であり、3週間固定していたということで、

1、可動域の制限があったこと
2、筋力の低下があったこと
3、怪我のため体全体のバランスが神経系を含め大きく崩れていたこと
4、実際の格闘技の動きへの応用がうまくいっていなかったこと(予防を含む)

これら4つが問題点として浮かび上がってきたのです。これらの問題点をクリアすることなくいきなり本格的な練習や試合に復帰してしまっては、故障箇所にますますの負担がかかってしまい何度も何度も怪我を繰り返してしまうことになるのです。格闘家の皆さんの中には、足首を捻挫したまま練習して、また練習で傷めてしまった、という経験をお持ちの方も少なくないと思います。そのような選手には3、4の問題がクリアされていなかった場合が多くみられます。メディカルトレーニングは、メディカルチェックを含めた身体の評価と原因の明確化、原因に対する個別トレーニングと予防、健康管理、メディカルアドバイスを行い、「怪我の治療後」から「試合で不安なく戦える状態」までのサポートするものです。

脳との感覚のずれ
怪我をしてまた再発しやすい原因の一つに神経系の損傷を含んだ脳とのギャップがあります。
「脳との感覚のずれ?」疑問に思われる方もいるかもしれません。
”格闘”を神経学的な視点から捉えてみると、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、深部感覚、またスポーツマン特有の「身体感覚」をフルに稼動させ、相手の動きを読み、それらの情報を元に脳が次にすべきをことを瞬時に解析、判断し運動神経を介して各骨格筋に命令を下し体が動き技となると考えることが出来ます。格闘家の動きの一つ一つ、それは意識、無意識にかかわらず全て脳からの指令で行われているということなのです。
練習で何度も何度も反復してパンチやキック、投げや関節技などを繰り返し、脳の中には技を出すための「回路」が出来上がっています。この回路が出来上がっているから、試合で闘えるのです。
生まれて初めて補助輪なしの自転車に乗った時はどんな人でもふらついてしまってうまくいかないと思います。何回も繰り返しチャレンジするうちに脳の中に神経細胞どうしの連結が完成し、「自転車に乗る」回路がうまく働いて自転車に不安なく乗れるようになるのと同じシステムなのです。
それでは、怪我をすると脳とのギャップが生じる、というのはどういうことでしょうか?
打撃にしても寝技や投げ技にしても、ステップやフットワークにしても、普通は怪我をしていない状況で練習していることが多いと思います。自転車の例でいいますと、自転車が故障していない、メンテナンスが行き届いた状態です。このような状態で作った神経の回路は、怪我をした時にすぐさま怪我をした体に対応することが出来ないんです。手首を傷めて、治ったと思い込み久しぶりにサンドバックを打ったらまた同じ箇所を傷めてしまった!という経験をお持ちの方もいらっしゃるのではないでしょうか?体は明らかに故障しているのに、脳は怪我をした体の状態をしっかり認識していないので「いつもどうりの感覚で」動いてしまう。タイヤがパンクした自転車に乗ってレースに出てしまうようなもので、自転車はがたがたになってしまうでしょう。怪我を抱えてもうまく闘うには、怪我を確実に治すことと怪我を抱えた状態でも闘えるよう普段から練習しておくという2つの視点を持つことが重要なのです。やはり怪我をしっかり見つめて、脳とのギャップを少なくしていく作業が欠かせないものとなるのです。

試合中の怪我にも負けない選手
試合中にも思わぬ怪我が襲ってくることがあります。いろんな選手をみていると、試合に夢中で自分の怪我に全く気がつかない場合もあるようですし、試合中「あ、やばい!」と感じることもあるようです。
一流選手はみな、試合中に怪我をしてそれに気がついた場合は、いろんなアレンジをして闘える状態を作り出しています。打撃で拳を傷めた場合は、相手に悟られないように次のラウンドから蹴り主体のスタイルにチェンジしてみたり、ローキックのダメージが蓄積している場合はその脚を軸足ではなく蹴り足にしてみる、といったギアチェンジをしているのです。
かつてオリンピックの決勝で立っているのもやっとな足首を負傷を抱えながらも見事金メダルを奪取した天才柔道家、山下康裕選手が凄いところは、一般的には「致命的な負傷にもかかわらず、一生懸命闘って勝ったから凄い」という評価になっているようですが、やはり格闘家としてみた場合、「致命的な負傷を抱えてもなお、自分の方に勝ちを呼び寄せる技術と精神を持ち合わせていたから山下選手は凄い」と評価されるべきでしょう。きっと山下選手は、普段の小さな怪我でも怪我を決して無視することなくそこからあらゆる状況を想定した練習を積み重ねてきたのでしょう。「どんな状況でも一本を取れる柔道を目指してきた」という本人の弁には、彼の柔道の大きさと深さを感じます。

格闘家のすぐそばで

怪我を克服した選手は本当に強い!いろんな選手を見てきて本当にそう思います。怪我するまでは勢いだけで勝ってきたような若い選手が、怪我をし、辛い体験を乗り越え、試行錯誤しながらリングへ復帰していく姿は、怪我をする前よりも人間的も格闘家としても一回りも二回りも大きく成長した人間の姿です。格闘選手の多くは本当に自分を飾らないし、人間としての芯の強さを感じさせてくれます。もちろんリハビリやトレーニングに対する姿勢もまじめで、あまりに早い回復にこちらが驚いてしまうこともあります。怪我と闘う彼ら格闘家は、医療者である私たちの「最高の先生」であり、様々なことを教えてくれるのです。
格闘技をずっと続けていくのは、並大抵のことではありません。格闘家は自分と闘い、相手選手と闘い、怪我と闘い、そして世間の格闘技に対する偏見も含めた社会とも闘っている。サッカーや野球、ゴルフといったメジャースポーツで怪我をしても会社で問題になることはあまりないようですが、格闘技をやって怪我をし、会社を休むことになればあまりいい反応は帰ってこないのが現状でしょう。「いい年して格闘技なんかやっても。」「格闘技もいいけどそれじゃ食えないだろ」格闘技に興味のない人たちはそのように言うでしょう。でも私たちは格闘技を心から愛し、時には命を削ってまで闘う格闘家を応援したい。ミーハーな格闘技を見る側の立場もなく、プロモーターの側でもなく、本気で格闘技に人生をかけている選手のみなさんのお役に立ちたい。そう思って活動しています。それだけに、みなさんには社会的、経済的に追い込まれるほどの大きな怪我は負ってほしくない。軽い怪我の段階で正しい知識と適切なケア、メディカルトレーニングを含めた再発の予防、そして最も大切な自分の体のサインに気づく方法を身につけてほしい。ゆくゆくはスポーツ界の中でも、格闘技選手が一番からだのことを良く知っている、そういう風になれば、また格闘技に対する認知も変わっていくと思うのです。
怪我は辛く苦しいものである反面、あなたがさらにレベルアップするための大きなヒントをくれる、体の声でもあります。怪我に正面から向き合い、対処法を編み出し、より強くなってほしい。後々、「俺はあの怪我のおかげで強くなれた」格闘家の方々にはそう思えるように頑張ってほしいと思っています。

格闘クリニックでは格闘家のケア、メディカルトレーニングから試合復帰までを格闘技ドクターおよびプロ格闘家が専門にサポートしています。
詳しくは格闘技医学のすすめまで。